Teaching振り返り

昨年の八月に助教として着任してから、3セメスター目が終わった。最初のセメスターは授業が免除され、研究室のセットアップに集中させてくれるのだが、今年の春・秋セメスターと授業を担当し始めたため研究がしばらく停滞してしまった。研究そのものにはある程度自信は持っているのだが、アメリカでの授業やアウトリーチとなると経験がほぼ皆無だったので随分と苦労した。いい授業を作り上げるのは想像以上にむずかしい。また、毎日きちんとスケジューリングしないと、授業や各種委員会(対してやってないけど)の「合間」に研究を進められないと痛感した。もともと一日の時間の使い方をカチッと決めるタイプの人間なので、慣れたら研究を進める時間も十分にとれたが、もとから緩いスケジューリングで進めている人はすぐに破綻するだろうなぁと思った。

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私は1セメスター2コース(4-6クレジット分)の担当なのだけど、各コース週に三時間はインストラクションをしなければならないので、毎週6時間分の講義やら実験を準備し提供する必要がある。授業が始まる前に、「こういう授業を教えてください」みたいなガイダンスがある、、、わけではない。内容は完全に授業の担当者まかせ。よく言えば自由なのだが。アメリカで一切教育を受けた経験を受けたことがない私にとって、この「自由」は恐怖だった。アメリカの教育のスタンダードがまったくわからないし、そうした状況をわかってくれる同僚もいないというのは中々つらい(外国人教員は多いが、大半はアメリカでPh.Dを取っている人なので)。

各セメスター15週あるので、総計30時間をうまく構造化しなくてはならないのだけど、少なくとも春のセメスターは、受け持ったコースの全体像をまったくイメージできぬままスタートしまった。これはよくなかった。最終的なゴールが明確でないので、個々のピースがいろんな方向むいたまとまりのないベクター集合のようになってしまい、受けている学生も迷子になったのではないかと思う。そしてセメスターの半ば、コロナの拡大を受けて授業のOnline移行が通達され、授業はよりまとまりのない感じになってしまった。

この反省をうけて、秋学期の担当分はかなり改善された授業を準備できたように思う(もちろんまだ十分とは思えないが)。一つは履修人数が100人を超える大きいコースだったのであまり教え方に選択の余地はなかったが、院生の授業のほうは小規模だったので「理論と実証をつなぐ」をテーマになかなか楽しいコースにできた(と信じたい)。私自身、このコースの時間は学生と一緒に議論するのがすごく楽しみだった。

理論は数式を見ているだけだとどうしてもわからないまま進んでしまうので、Rを使って自分自身で「図示」してもらうことをふんだんに取り入れた。扱った理論は極めて基本的なものだったけれども(個体群動態モデルやロトカーヴォルテラ方程式など)、図示という作業を挟むだけで随分と理解度が違ったようだ。そうした理論の説明のあと、その理論と関連する実証研究の論文をみんなで読み、授業までに3つの質問を用意してもらうような形にした。この質問を事前に用意してもらう、というのはやってよかった。一度わかってしまうと「わからなかった頃」の感覚が分からなくなってしまうので、これを提出してもらうと「何がわからないのか」をこちらで事前に把握でき、授業中のフィードバックが容易だった。

しかし、こうした授業、特に英語論文をもとに議論する授業をもってみて感じるのは、英語が公用語であることの強みだ。私が学部生や大学院生のころ、少なくとも英語論文を読んで授業で議論するなんてことは絶対できなかったと思う。そもそも論文英語がちゃんと読めないからだ(まともに日本語で議論できるようになったのは博士2年目あたりからだろうか)。しかしこちらでは、論文を学生にアサインし、要約してプレゼンして、といえば見事にまとめてくるし「何がわからないのか」もはっきりしているので教えやすい。また、私自身、毎日こういう場にさらされる中で、「感覚的におかしい英語表現」というものもわかるようになる。スポーツ選手などとは異なり、研究者は「英語表現力」がそのまま研究成果の表現力なるので、ここになんともいえない理不尽さを感じる。こういう理不尽さを知るものとして、こちらでそうした事実を発信していったほうがいいのかもしれないと思う一方で、発信したところで理解してもらないだろうなぁ、という虚しさも感じる。こうした感覚は、いわゆるマイノリティーやシステマティックバイアスの問題一般に通ずることなんだろう。

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